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軍艦防波堤三艦と少し怖い話

[軍艦防波堤三艦と少し怖い話]
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石碑。

慰霊碑や記念碑など内容は様々ありますが、その殆どが往時の記憶を後世に伝えるという役割を果たしています。

 

となれば石碑に刻まれている内容は当然全て正しい。

 

……そう思っていた時期が私にもありました。
とことで今回はとある石碑についてのお話です。思い込みは怖いね。

 

 

 

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場所は北九州市戸畑区。
対岸の若松区との間にかかる若戸大橋が目立ちます。

但し徒歩で若戸大橋は渡れません。その場合どうするかといいますと

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渡船を使います。

若戸渡船。概ね時間4本の間隔で運行されており、5分程度で対岸に渡る事が出来ます。

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若松区に入りました。建物はこちらの乗り場の方が大きいですね。

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この辺りは戦前からの構造物が点在して残されています。
若戸大橋を取り巻くこれら建物や渡船の存在は、小旅行の行き先として持ってこいな要素ですね。

 

 

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ただ今回の目的地はもう少し離れた場所にあるので、さらにバスで移動。
北九州市営バスの若松営業所までやってきました。

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そしてさらに徒歩で1時間弱。工業地帯を突き進みます。

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人家がないので、公共交通機関がほぼ無いんですよね。歩道はあるけど、所々歩く事を考慮されてない形してますし。
あとめっちゃ石炭落ちてた。さすが北九州。

 

 

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そんな感じで目的地に到着です。

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一部が船のような形をしている、少し変わった防波堤。
この防波堤は旧日本海軍の艦艇を沈めて造られたもので

『軍艦防波堤』

と呼ばれています。

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ここの防波堤に使われた艦艇は三艦。
防波堤の近くには大和ミュージアムから資料提供を受けて作られた案内板もあります。

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このうち少し面白いのは『柳』の存在。

他の二艦は言わずもがな太平洋戦争の末期まで戦い、佐世保で終戦を迎えています。
その一方で、『柳』は開戦時点で既に除籍されています。

調べてみると除籍後も解体されずに、佐世保で旧制中学の教材として使われていたようです。
要は終戦時点で佐世保に居た艦を利用して、ここの防波堤は造られた訳ですね。

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ちなみに船の形がしっかりと残っているのがその『柳』です。
『柳』の艦首から先には『涼月』『冬月』がいる……はずですが、現在はすっかり埋まってしまいその姿は見えません。

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一応『涼月』のいる辺りには鉄製の梁の様なものが見えます。恐らくこれが『涼月』なんでしょうねえ……
なんて事を言ってたら、同行者のomiさんから

「憶測で決めつけると後で大変なことになりますよ?」

とつれない一言が。何もそこまで厳しく指摘しなくても……

 

 

そう思っていた時期が私にもありました(二回目)

 

 

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三艦とは言え、先ほどお見せした通りちゃんと見えるのは『柳』のみ。
後は正直そこまで見るべき部分も無いので、周辺の写真を撮ってから次の場所へと移動しました。

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帰りも歩きで1時間弱、そこからバスに揺られて、途中下車してから今度は山登り。
都合2時間歩いた後にこの坂は少し厳しい……

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到着したのは高塔山公園です。

この高塔山に、軍艦防波堤に使われた三艦の慰霊碑があるという事でやって来ました。
慰霊碑は山の中腹にあると案内板には書いてあったようですが

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案内板読まない勢なので思いっきり頂上まで登りました。
まあここはここで今日辿って来た若戸大橋から軍艦防波堤までを一望できるので、良い場所です。

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眺望の良さに思いのほか写真撮影がはかどってしまいましたが、本来の目的は別。
中腹に戻って忠霊塔を目指しましょう。

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忠霊塔に到着。この塔がある公園の一角に、軍艦防波堤三艦の慰霊碑があります。

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慰霊碑の下部には防波堤の場所と同様に、三艦の経歴が書かれた石板がありました。

 

 

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……!?

 

私「omiさーん!omiさーん!!」

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私「なんか『柳』の記述が全然違うんですけど!!!」

 

omi「あー、そりゃそうですよ」

omi「だってその慰霊碑の記述、間違えてますから」

 

マジかよ。

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いやだってこんな立派な慰霊碑ですよ?

その慰霊碑に書かれている記述がまさか間違えているなんて誰が思いましょうか?

私だって最初に防波堤本体の方へ行ってあの案内板を読んだからこそ気づきましたけど
あれ読まなかったら絶対ここの記述を鵜呑みにしますよ。

 

 

さて、結局この間違いはどうして起きたかと言う話。

ここで詳細に語れるほど私も知識が無いので掻い摘んで説明しますが
慰霊碑の方に書かれた『柳』は、先代の『柳』除籍後に新造されたいわば二代目の方なんですね。

どうやら

 

「軍艦防波堤に使われた艦艇は『柳』『涼月』『冬月』の三艦である」

 

という事は知られていたようです。
ただこの『柳』という艦名だけが前に出てしまい、それが先代か二代目かまで精査される事は恐らくなかったのでしょう。

そしていつの間にか防波堤に使われた『柳』は二代目の方であるという通説が作られ
こうして慰霊碑に記述されるまでに至った、という事になります。

 

まあよく見てみれば一艦だけ津軽海峡で大破していたのを持ってきた事になってますし
そもそも「艦尾を大破」と記述されているのに現物は

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ご覧の通り一切の損傷なく綺麗に艦尾が残っていたりと、よく調べれば整合性が取れていない部分があるんですよね。

 

慰霊碑が建てられたのは昭和51年と、終戦から30年ほど時間が経過しています。

この間に調査されていればこのような事態も起こらなかったのですが……
もはや昔からの伝聞のみを鵜呑みにして建てられたんでしょうねえ。

 

 

ともすれば先ほどの話

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「この鉄製の梁、恐らくこれが『涼月』なんでしょうねえ……」

に対するomiさんのつれない返答にも深い意味合いを感じますよね。

 

 

ここ数年は艦船系のゲームが流行ったこともあり、過去の旧日本海軍艦艇にまつわる新しい資料も次々発見されています。
また旧海軍や艦艇に縁のある場所が、それを強みに町おこしを成功させているケースもあります。

そんな中で

「自分の地元ととある艦艇に縁が!」

という資料が出てこようものならば、その資料を元にして大々的に宣伝したくなるかもしれません。

 

しかしその資料があくまで断片的なものであった場合、それは十分に精査する必要があります。

その資料だけを信じ込んで突っ走ってしまうと、あとで思いがけないどんでん返しを食らうかもしれませんね?

 

 

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そんな事まで考えてしまい、少し怖さも覚えた今回の軍艦防波堤探訪でした。

 

 

あと蛇足になりますが、この慰霊碑をもって各艦及びその乗組員への慰霊をしたいという想いは理解しております。
防波堤にはなってませんけど、津軽海峡で果敢に戦った『柳』も確かに存在したのですから。

 

 

[参考リンク]
軍艦防波堤資料集

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